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乳がん闘病記

乳がん闘病記(3)乳がん治療の地を決断、帰国へ

前回までの日記

前回は妻の乳がんの初発の時の検診から針生検の結果、医師からの告知に至るまでを書きました。

今回は告知後の初めての診察、悩みに悩みぬいて、日本への帰国を決断し、実際に日本に帰るまでの事を当時のメモ等を頼りに思い出して書いていきたいと思います。

告知後の診察までの間

前回のブログでも書きましたが、告知から診察までの間、だいたい医師との診察でどういったことを聞くか、どのような話になるか、インターネットをくまなく検索して大量の情報を得ていました。

妻の乳がんのサブタイプはトリプルネガティブで予後が良くない、抗がん剤治療がメインで、乳房はかなりの確実で全摘出になること、手術が先か抗がん剤治療が先か結構みんな悩んでいること等は一応調べておきました。

アメリカでの病院は初発はとりあえずかかりつけの病院でよいと考えていました、ただこの時点ではアメリカで治療を行っていくか、日本で行なっていくかが大きな課題となっていました。この時落ち着いて考えれていませんでしたが、この2択があったことは今思えばとても運が良かったことだと思います。

日本の病院も片っ端からしらべましたが、日本に戻った際、妻の実家から通院することになることや、もちろん医療のレベル、あとは今のアメリカの病院と連携していけるようなところを見つけることができないかと探していました。そんななか当てはまる病院が一件あり、さっそくメールを送ってみたところ、2~3日中のとても短い間に、とても親切に対応してくれ、国際電話でも対応して話を聞いてくれました。

ちゃんと、すぐに専門の医師にも状況を報告してくれ、「日本に何日に帰ってきたら、何日のこの時間に予約が取れます。」「手術を先にやるとすれば何日後くらいならまだ空きがありそう。」とかとても具体的な情報をいただくことができました。いまでもこの対応にとても感謝しております。窓口で対応してくれた担当者の方にも後に病院であった時は涙ぐんでお礼を言ったのを覚えています。

告知後初めての診察の日

どうやらベテランの女性の医師が妻の担当になったようです。まずは問診と今後の治療の方針について話がありました。

私と妻は色々と調べていたのですが、やはり医学英語となるとかなり聞いたことない英語なので何度も聞きなおしていると、

医師:「日本語の通訳つける?」

私と妻:「イエスプリーズ!」

なんだ通訳なんてつけられるんかいっ!と思いながら丁寧にお願い。そうすると医師は電話をもってどこかに電話をかけ始めました。

あーなるほど通訳に電話をかけてスピーカーホンにして話すってことか。と思っていると日本人の女性が通訳として話し始めました。

「よろしくお願いします。」なんかこんなところで知らない日本人と話すって変な感じだなと思っていると、お構いなしに医師がしゃべりだす。

やはり内容は今後の治療や抗がん剤、手術をする必要があることなどでした。というか結局通訳の方も医療英語に詳しいわけではないので私たちと同様、通訳さんも内容を聞き直すという展開に…。通訳さんに訳してもらう内容くらいはわかったので、途中からはなんだかごちゃごちゃになりました(笑)

しかし、通訳さんには大変申し訳ないことをしました。訳される前に私達も返答してしまってごちゃごちゃにしちゃうわ、それはともかく内容が重たすぎる。こういった電話で受け付けるタイプの通訳さんはいっぱいいると思うのですが、きっと対処する場面は色々で、こういった生死の話や、危機迫った場面の通訳もすることがあるだろうし、とても大変な仕事だと思いました。

海外のホテルである、あの通訳サービスも同じ会社が対応しているとしたら、なおさら私たちの通訳は話が重たすぎてすみませんでした。

きっとホテルでは「トイレがつまったので部屋にきてください」とか通訳してるだろうに…。申し訳なさすぎる…。

かなり話が脱線しましたが、薬の名前等は事前に調べていたので何となく聞き取れました。日本の病院からもメールの返答で標準治療で使用する抗がん剤の種類は聞けていました。

具体的な抗がん剤の名前だとパクリタキセル(これは毎週で12回投与だったかな。すみません売る覚えなので絶対にあてにしないでください。)、あとAC(4回だったかな)、あとはやはり乳房は全部摘出しなければならないという話しでした、BRCA1変異なのでシコリのある右だけでなく左も取ることを進めていたかと思います。(勿論最終判断は本人ですが。)

この時点でアメリカと日本で最初に使う抗がん剤は同じという事がわかり、あとは手術のタイミング、どれだけ早くできるか。これは賛否両論ありますが、私たちは全摘出するなら一刻も早く手術をした方がいいと思っていました。アメリカでは驚きの2か月後とかだったと思います。確か年末年始を挟んで最速が日本でも1か月後くらいでした。

手術スケジュールの速さ、抗がん剤の種類が同じことから日本での治療を選択することに

前に書いた通り、手術のタイミングは日本の方が全然早かったです。最終的にこれが決めてになって日本での治療を決意しました。

この時点で抗がん剤がアメリカでしか使えないようなものがあったら、もっと悩んだかもしれませんが、抗がん剤も同じ。

初発で妻も周りに親戚がいた方が心強いだろうとも思いました。1歳の息子もいるし、すべてが日本での治療に傾いていきました。

確か告知から2週間くらいで一家はアメリカを後にすることになりました。その後、私だけは何度か家の片づけと仕事の打ち合わせ等でアメリカに来ましたが、妻の手術が終わった年明け頃を最期にすべて家財を処分し、日本に生活の場所を完全に移しました。

一家でアメリカを後にしたの確か、年末で、あれはクリスマスでした。初めて飛行機にクリスマスに乗りました、機内がクリスマスの装飾がされてお洒落だったことを覚えています。

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