2019年終わり頃某日、9年連れ添った妻が亡くなりました。
最期は痰の吸引の最中に息を引き取りました。モルヒネも2週間くらい打っていましたが、
処置中はさらに胃カメラとかで使う薬を投与していたので最期は意識もなく、医者が言うには最後は苦しまなかったはずとのことです。
最期の瞬間まで一緒に手をつないで、最後まで看取ったのですが、本人は意識がないとは言え、見ていた私は
胸が張り裂けそうなくらいつらかったです。今でもこの時のことを思い出してしまい、頭にその時の絵が浮かび涙が止まりません。
「苦しかっただろうな、つらかっただろうな」、結局何もしてあげられなかったのです。
普段はとても怖がりな妻でしたが、闘病中は誰よりも強かったです。5年間も闘病して、よく生きました。ありがとう。
話が反れてしまいましたが、2019年終わり頃、私は6歳の子供を連れて東京に来ていました。
本当は一人で動けなくなった妻を義母の家に迎えに来て一緒に帰るつもりだったのですが、内心、もう家に戻れないかもとも思っていました。
妻は夏休みに急激に容態が悪くなり、乳癌から、肺、脊椎、胸骨リンパ節、肝臓と広がったガンがついに脳に転移していたのです。
その後、東京から家に帰れなくなり、子供の学校も始まってしまうので致し方なく家族は妻と私、息子と離れ離れになりました。
こんな状態の妻を残して、傍にいなかったことを批判されるかたもいるかもしれませんが、
この時を判断(妻と離れ離れになったこと)を後悔はしていません。妻と沢山話し合って、決め、妻は私と子供のことを優先してくれました。
それから数か月後の2019年終わり頃、息子と東京に妻を迎えに来たのです。
変わり果てた妻
私と息子が東京に着くと、義母が私達の仮住まいの家まで妻を連れてきてくれました。
そこで妻と子供と帰るまで宿泊するつもりでしたが、全くそういう状態ではありませんでした。
東京に行く前に何回か電話していて、容態も聞いていましたがここまで悪いとは正直思っていませんでした。
ここ1日2日でさらに容態が悪くなったようでした。
念のため車いすをレンタルして用意しておいたのでそれでタクシーまで迎えに行きました。
その後はベットに寝ることもできず、車いすの上で寝ているか、
ベットの上にずっと座っているような状態でした。本当に辛そうでした。
トイレの介助も必要な状態となっており、次の日は緊急で病院に行くことにしました。
きっと義母と二人でいたときは相当無理をしていたんだろうと思います。
次の日、初発からお世話になっている病院に行くと、すぐに色々な検査をしてくれました。
その結果、心臓の水(心嚢水)にガンが転移しており、水が膨大に増え、心臓の動きを圧迫していることがわかりました。
それが原因で体が動けなくなっていたようです。その後、緊急手術を行い、水を抜けるように管をいれてくれました。水が抜けると劇的に妻の体調は一時的によくなりました。
ただ次の日からこれも朝水をぬいて、午後になると朝とは別人のように体調が悪くなります。
心臓の水は毎日タンクがいっぱいになるほどになり、毎朝専門の医師が抜いてくれ、安定してきたのも束の間、肺の状態が著しく悪くなり無治療状態になりました。いわゆる緩和ケアというのに移行したのです、こんなことが1か月くらいの短い間にすべてが進んでいきました。
肺のガンもここにきて急激に悪くなっているような感じがしました。血痰もこの頃から多くなり、吸引も一日に一回、二回と増えていきました。
最後はこの水と肺の転移が致命傷となり妻の命を奪っていったのだと思います。
脳に転移した腫瘍の摘出のため、開頭手術を行ったため、抗がん剤は完全にストップしてしまい、その間に肺やその他のガンが
一気に暴れ始めたのが目に見えてわかりました。その結果、心臓の水、肺のガンを悪化させ、肺ガンにより日々呼吸が苦しくなり、
痰が出せなくなり、吸引処置の最中に息を引き取ったのです。
専門家から見たらアレとコレは関係ないよとか言うかもしれませんが、5年間闘病生活を共にしてきた私はこのように受け止めています。
私達はこれまで色々な乳がんの情報やブログ、論文等にも目をとおし、勉強し、できる限りの処置は行ってきたつもりですが、
結局、最後は体が限界を迎え、抗がん剤が使えなくなり、なす術がなくなるんだなと改めて感じました。